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ユーゴスラビアのパルティザン()は、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(スロベニア語:、セルビア・クロアチア語:、マケドニア語:、略称:)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり〔、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。 パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており〔Tomasevich 2001, p. 96.〕、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王政の維持と、セルビア人の保護を目的としており〔Milazzo (1975), pp. 30-31〕〔Roberts (1973), p. 48〕、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していた〔Tomasevich (1975), pp.166-178〕〔Banac (1996), p.143 1941年夏以降、チェトニクはセルビア人の抵抗者を糾合し、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部においてムスリム人に対する残虐行為の数々を実行した。ムスリム人に対する虐殺は、ノドを切り、川に落とすといったものが多く、フォチャやゴラジュデ、チャイニチェ、ロガティツァ、ヴィシェグラード、ヴラセニツァ、スレブレニツァやドリナ川渓谷一帯などのボスニア東部で頻発したが、セルビア人の村が点在するヘルツェゴビナ東部でも、1942年までは強固に抵抗を続けるセルビア人の活動があった。チェトニクの文書では、たとえば1942年6月にコトル・ヴァロシュ地区のヤヴォリネでの会合の議事録に見られるように、「セルビア人ではないあらゆるすべてをボスニアから除去する」決定について述べられている。セルビア人チェトニクによる民族浄化の正確な被害者数を特定することは難しいが、数万人が殺害されたと考えられる〕〔Hirsch (2002), p.76〕〔Mulaj (2008), p.71〕〔Velikonja (2003), p. 166〕。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった。 彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。'')といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり〔、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。 パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており〔Tomasevich 2001, p. 96.〕、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王政の維持と、セルビア人の保護を目的としており〔Milazzo (1975), pp. 30-31〕〔Roberts (1973), p. 48〕、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していた〔Tomasevich (1975), pp.166-178〕〔Banac (1996), p.143 1941年夏以降、チェトニクはセルビア人の抵抗者を糾合し、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部においてムスリム人に対する残虐行為の数々を実行した。ムスリム人に対する虐殺は、ノドを切り、川に落とすといったものが多く、フォチャやゴラジュデ、チャイニチェ、ロガティツァ、ヴィシェグラード、ヴラセニツァ、スレブレニツァやドリナ川渓谷一帯などのボスニア東部で頻発したが、セルビア人の村が点在するヘルツェゴビナ東部でも、1942年までは強固に抵抗を続けるセルビア人の活動があった。チェトニクの文書では、たとえば1942年6月にコトル・ヴァロシュ地区のヤヴォリネでの会合の議事録に見られるように、「セルビア人ではないあらゆるすべてをボスニアから除去する」決定について述べられている。セルビア人チェトニクによる民族浄化の正確な被害者数を特定することは難しいが、数万人が殺害されたと考えられる〕〔Hirsch (2002), p.76〕〔Mulaj (2008), p.71〕〔Velikonja (2003), p. 166〕。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった。 彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。 == 背景 == 1941年4月6日、ユーゴスラビア王国は四方より枢軸勢力の侵略を受けた。侵攻にはナチス・ドイツのほかに、イタリア王国、ハンガリー王国、ブルガリア王国が加わった。この時、ドイツ空軍によるベオグラード空爆(Bombing of Belgrade in World War II)が行われた。侵略は10日前後で完了し、4月17日にユーゴスラビア王国軍は無条件降伏した。ユーゴスラビア王国軍はドイツ国防軍と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面からいっせいに侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた〔Tomasevich (1975), p.64-70〕。 枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。ドイツはスロベニアの主要部を併合し、また傀儡政権として設立されたセルビア救国政府の領域を占領するとともに、クロアチア独立国などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした。クロアチア独立国はこんにちのクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ、さらにセルビアのスレム地方を領土とした。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国はスロベニアの南部、コソボ、そしてダルマチアの沿岸部およびアドリア海の島々を手に入れた。またイタリアは傀儡国家・モンテネグロ独立国を設置して支配下に置き、またイタリア王家はクロアチア独立国の王位を手に入れた。ハンガリー王国はバラニャや、バチュカなどのヴォイヴォディナの一部、クロアチアのメジムリェ地方、スロベニアのプレクムリェ地方を併合した。ブルガリア王国は、こんにちのマケドニア共和国に相当する地域の大部分、およびセルビア東部とコソボの一部を併合した〔Tomasevich (2001), pp. 61-63〕。ユーゴスラビア王国の解体とクロアチア独立国、モンテネグロ独立国、セルビア救国政府といった傀儡政権の樹立、枢軸国による占領と併合は、当時の国際法にも反するものであった。 枢軸勢力による地域住民に対する過酷な支配により、パルティザンは住民の広範な支持を得ただけでなく、住民が生き残るための唯一の選択肢であった場合も多い。占領初期には、ドイツ軍は女性や子ども、老人を含む一般市民への無差別殺戮を各所で展開し、ドイツ兵1人の死亡につきセルビアの市民100人、ドイツ兵1人の負傷につき市民50人を殺害するという異常な方針を取った。この他にも枢軸勢力やその協力者による蛮行はユーゴスラビア全土で繰り広げられた。クロアチア独立国の領土ではウスタシャやドイツ軍による民族浄化などの蛮行が盛んに行われた。 ユーゴスラビア全土を取り巻くこうした無法状態の中、ユーゴスラビア共産党は反ファシズムの抵抗勢力を糾合し、全国的な抵抗運動へと組織化していった。ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産党は戦間期のユーゴスラビア王国で非合法化され、それ以降は地下活動を続けていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パルチザン (ユーゴスラビア)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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